我必ず聖にあらず、彼必ず愚なるにあらず。



聖徳太子の
『憲法十七条』の十条の中に、



「人みな心あり、心おのおの執ることあり。かれ是(よ)んずれば則ち我は非(あし)んず、我是(よ)みすれば則ち彼非(あし)ん、我必ず聖なるにあらず、彼必ず愚なるにあらず、ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あ)しきの理、たれかよく定むべき。あいともに賢く愚なること、みみがねの端なきが如し。」

(人にはみな心がある。その心は、それぞれに自己中心的な執われに支配されている。そういう自分本意な立場からあらゆることを判断するから、彼がよしとすることを、我はあしとみなすし、我がよしとみなすことを彼はあしとするようになる。しかし、我があやまちをおかさない聖人では必ずしもないし、彼があやまちばかりおかす愚者では必ずしもない。我ひとともに、自己中心的な想念にふりまわされている凡夫にすぎないのである。このような凡夫同志が、是非を争ってみても、これこそまことの是であり非であると決定することは誰にもできない。お互いに賢さと愚かさが同居していて、それは耳輪に端がないように終わりがないようなもの。)





かつて聖徳太子は、世の中が乱れるのは人々の自己中心的な心に原因があるとして仏法を基盤とした国づくりに取り組まれました。
自らの自己中心的な心によって、偏った正しさ、善し悪し、損得などの想念に振り回されて迷いを深める姿は、聖徳太子の時代も、今の時代も変わることはありません。


そして、自分自身も様々なニュースや出来事を目にし、常に自らの正しさをもって周りを裁いてしまっていることにも気がつかされます。


聖徳太子の言葉を味わいながら、改めて自らの生活を省みることが大切だと感じさせられました。

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