Q&A

永代経とは?

永代経とは、"永代読経"といい「永代(末永く)お経が読まれる」という意味です。

それは、お寺が永代に渡って存続し、世代を超えてみ教えが伝わっていくようにという願いがこめられているのです。そうして、その願いが形となったものが「永代経懇志」です。ある程度まとまったお金を懇志として納められたり、仏具を寄贈されたりします。その報恩の行為により、お寺も護寺されていくのです。

お寺の中の仏具や様々なものは、ほとんどが永代経懇志によって納められたものです。ですから、懇志を納められた方や仏具を納められた方の名前は本堂や仏具などに「施主○○○○寄贈」などと刻まれています。

お寺とは、お念仏のみ教えを喜ばれた先祖の方々や現にお寺を護持されている方々の願いや想いが詰まった場所であり、その先人方の願いを受けながら、残された私たちも、その後の世代の方々も末永く仏さまの教えを聞き、お念仏のみ教えを喜ばせていただくことが永代経のこころなのです。


永代経についてお考えの方はお気軽にご相談ください。

約200年前に寄進された大きんです。


法名?戒名?

「法名」も「戒名」もどちらも仏教徒を表す言葉ですが、意味は大きく違います。

まず、浄土真宗では「法名」、他宗では「戒名」といいます。

戒名は、厳しい自力修業をめざして、受戒した人に対して授けられる名前です。

一方で浄土真宗では法名「釋○○」という名前です。法名を授かるということは、戒律を守って生活することが出来ず煩悩を抱えながら生きる私たちが、お念仏の法を依りどころとして人生を歩む表れであり、阿弥陀如来の智慧と慈悲に照らされながら人生を歩む姿なのです。

また、法名は亡くなってから授かるものと思っている方が多いですが、本来は生前に帰敬式(おかみそり)を受式し、法名を授かります。

まだ受式されていない方で希望される方はお寺までお問い合わせください。


※おかみそり・・・親鸞聖人が出家された時に剃髪されたことに習って、法名を授かる時におかみそりを軽く頭に押し当てます。本当に髪を剃るわけではないのでご安心ください。

受式料は、成人/10,000円  未成年/5,000円です。





お香典の表書きは?

お寺の場合、法事や葬儀などで準備するお香典の表書きは「御仏前」と書きます。

「御仏前」や「御布施」という表書は、報恩感謝の想いから仏さまへお供えするという意味であって、決して僧侶に対しての報酬ではありません。

そして、注意すべきなのは、仏事のいかなる時でも「御霊前」は使用しないことです。浄土真宗は仏教の縁起の法を説き、霊魂不滅などの考えはないので「御霊前」とは書きません。

御仏前か御霊前かどちらかわからない時は「御香典」と書かれたらいいでしょう。


・浄土真宗での書き方

御仏前、御布施、御香典など、

・浄土真宗で適さない書き方

御霊前、御経料、回向料など、

また、宗派によって違いはあるかもしれませんがお供えする時は名前を自分に向けてお供えしましょう。



お彼岸とは?

「彼岸」とは季節を表す言葉ではなく、仏さまの悟りの世界であるお浄土を意味します。そして、私たちの住むこの迷いの世界を「此岸(しがん)」といいます。春と秋のお彼岸とは、迷いの世界の「此岸」から阿弥陀如来の極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていく日本独自の仏教行事です。


お釈迦様は、『阿弥陀経』というお経で、

 「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ」

と、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)の方角を西と表されました。これはあくまで喩えであって、実際に西に進んでいくとお浄土があるということではありません。お釈迦様は私たちの命終わっていく姿と、太陽が西に沈んでいく様子を重ね合わせて、このいのちが死んで終わっていくのではなく、阿弥陀如来のお浄土という世界へ生まれていくいのちであるということをお示しくださいました。この此岸という迷いの世界で現に悩み苦しみを抱えて生きる私たちに向けて、阿弥陀如来は「必ず救う」と「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の喚び声となって、私たちのいのちに絶えず届いていくださっているのです。


先人の方々は春と秋の季節に、真西に沈む太陽を見ながら極楽浄土に想いをはせ、阿弥陀如来の救いの間違いないことを、彼岸法要という仏事をとおして味わっていかれたのです。お彼岸の季節には、私たちもいのちの帰っていく場所、お浄土(彼岸)をともにお寺で聞かせていただきましょう。


供養ということ

一般的にお盆や彼岸などの仏事には「供養」という言葉がついて回ります。

しかし、浄土真宗ではあまり「供養」という言葉を使いません。それは「供養」という言葉が世間一般で「追善供養(ついぜんくよう)」の意味で捉えられているからです。

「追善」とは亡くなった人が良いところに行けるようにと、残されたものたちが念仏や善行を積み重ね、その功徳を亡き方に与えていくことを言います。言い換えれば、亡き方が死後迷うか救われるかは残されたものたちの自力の行い次第ということになります。


親鸞聖人は『歎異抄』に

「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。」

(親鸞は父や母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
と仰っておられます。

その理由として、一つには父や母のいのちも一切の有情(全てのいのち)の繋がりの一部であり、全てのいのちは一つであるということ。ゆえに父母を救うということは一切の有情(全てのいのち)を救うことであるから、そんなことは到底凡夫にできるはずもないといわれるのです。二つには、念仏は阿弥陀如来がみずからの徳のすべてを「南無阿弥陀仏」の名号にこめて衆生に恵み与えた行であり、凡夫が誰かに与えていくようなしろものではないということです。考えてみますと、自らの命の解決が出来ずにいる私たちが亡き方の命の解決までできるはずもありません。また、「追善供養」のために念仏が使われるものではないのです。
私たちは阿弥陀如来の「我にまかせよ、必ず救う」という南無阿弥陀仏のおはたらき一つで、今のこの命このままでお浄土に迎え取られ仏とならせて頂くのです。私たちが「良いところにいけますように」と願う以前に阿弥陀如来の側から「必ず救う」とすでにおはたらき下さっているのです。
そして、その阿弥陀如来の救いのはたらきが届いている形が「南無阿弥陀仏」が耳に聞こえ、口にお念仏となって出てきている姿なのです。

また「供養」という言葉は本来「尊敬する」とか「礼拝する」という意味があります。仏さまのお徳を褒め称え、お敬いの心から花や香などを捧げていくことが本来の「供養」だというのです。なので浄土真宗では「供養」という言葉は「追善供養(死者を弔う、慰める)」という意味ではなく、「讃嘆供養(仏さまの徳を褒め称える)」という意味で使われるのです。



どうしても残された側の亡き方をどうにかしてあげたいという思いは尽きませんが、お念仏のみ教えを聞かせていただく中に、亡き方がすでに仏さまとなって阿弥陀如来の救いの一部となり残された私たちを導いてくださっていることに気がつかされていくのです。



仏壇に水は供えない?

よく家庭のお仏壇に茶湯器やコップを使って水を供えている方がいらっしゃいます。そのほとんどは「仏さまや亡き方ののどの渇きを潤すため」と思って供えているようです。亡き方を大切に思うからこその行為なのでしょうが、浄土真宗では「仏さまや亡き方に飲んでいただく」というような水の供え方はいたしません。

 とは言っても「水そのものがいけない」ということではありません。水は、私たちの生活に欠かせない貴重な自然の恵みです。その尊い水を仏さまの恵みと味わい、生かされていることへの感謝から供えるならば、それはりっぱな報謝行です。


 そういう感謝の思いから水を供える場合、仏事の一定の作法として、浄土真宗では茶湯器やコップではなく「華瓶」という仏具を用います。ご飯を供える時に仏飯器を用いるように、水は華瓶を用いるというわけです。

 具体的には、華瓶一対に水を入れ、樒を生け(色花は用いない)、上卓に置きます。

 樒を生けるのは香木だからで、つまり香水として供えるのです。仏さまの恵みを浄らかな香水にして供えるところに敬いと感謝の心が込められていると言えます。ですので、華瓶の樒や花瓶のお花は造花ではなく、できるだけ生花を供えるようにしてください。

 なお、華瓶がなければあえて水やお茶を供える必要はありません



Q&A更新中