秋季彼岸会

先日、秋季彼岸会をお勤めいたしました。
この度はコロナ感染防止対策をとってお勤めすることができました。


彼岸会にあたっての法話の中で「供養」ということについて少し触れました。

一般的にお盆や彼岸などの仏事には「供養」という言葉がついて回ります。
しかし、浄土真宗ではあまり「供養」という言葉を使いません。それは「供養」という言葉が世間一般で「追善供養」の意味で捉えられているからです。
「追善」とは亡くなった人が良い所に行けるようにと、残されたものたちが善行を積み重ね、その功徳を死者に与えることを言います。言い換えれば、亡き方が死後迷うか救われるかは残されたものたちの自力の行い次第ということになります。

考えてみますと、自らの命の解決が出来ずにいる私たちが亡き方の命の解決までできるはずもありません。ですからお念仏のみ教えを頂く私たちにとっては「追善供養」ということは必要のないことと言えるでしょう。
私たちは阿弥陀如来の「我にまかせよ、必ず救う」という南無阿弥陀仏のおはたらき一つで、今のこの命このままが救いの目当てとしてお浄土に迎え取られ仏とならせて頂くのです。私たちが「良いところにいけますように」と願う以前に阿弥陀如来の側から「必ず救う」とすでにおはたらき下さっているのです。
その阿弥陀如来のはたらきが一人ひとりの命に至り届いている形が「南無阿弥陀仏」が耳に聞こえ、口にお念仏が称えて出てきている姿なのです。

どうしても残された側の亡き方を心配する思いは尽きませんが、お念仏のみ教えを聞かせていただく中に、亡き方がすでに仏さまとなって阿弥陀如来の救いのはたらきの一部となり残された私たちを導いてくださっていることに気がつかされます。


一つひとつの仏事を通し、共々にお念仏のみ教えをお味わいさせていただきましょう。


声に姿はなけれども  
声のまんまが仏なり
仏は声のお六字と  
姿をかえてわれに来る





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