親心
たはむれに
母を背負ひてそのあまり
軽ろきに泣きて
三歩あゆまず
詩 石川啄木
母を背負ってみると、歳をとった母のあまりの軽さに驚くと同時に、これまで親にかけてきた計り知れない苦労の重さがずっしりとこの身に伝わり、親に対する申し訳なさ、慈愛の深さに涙あふれ三歩も歩けなかったという親心に触れた短歌です。
やはり、子にとって母は特別な存在です。人によってはそれが父かもしれませんし、祖父、祖母かもしれません。そんな母に対して、私たちは日頃から何気なく「お母さん」と呼んでいます。
しかし、なぜ「お母さん」という呼ぶようになったのでしょうか。ほとんどの方が気づいた時には「お母さん」と呼ぶようになっていたのではないでしょうか。「お母さん」と呼んでいる私ですが、そこには呼ばせている親の側のはたらきがあるのです。
何があっても子を思い、決して見捨てず、子が苦しんでいる時には「お母さんがいるからもう大丈夫よ」と、幾度も自らの親の名をもって子に呼び続けているのです。私たちの口から「お母さん」と出てきているのは「あなたを決して見捨てない、それがお母さんよ」という全てを受け止めてくれる親心が私の中に宿り、安心させるはたらきとなって満ちみちているからこそなのです。
不思議なことに泣いている子も「お母さんがいるよ」と、聞こえるだけで心が落ち着き安心する、それは大人になっても感じるものではないでしょうか。
南無阿弥陀仏のお念仏もまさに親心が私の上ではたらきとなった姿なのです。阿弥陀如来は、この私たちを「もろもろの衆生はみなこれ如来の子なり」と、迷いの世界から救わずにはいられないかけがえのない命だと見てくださり「わたしこそがお前を必ず救ういのちの親だ」と、南無阿弥陀仏のお念仏となって私のいのちの上に届いてくださっているのです。
どこまでも自己中心的な心から自分本位な生き方しかできず、それゆえに悩み苦しむ私に向けて「そんなお前を救わずにはいられない」と口にお念仏称えさせ、全てを受け止める親心がたしかに届いているということを教えてくださるのです。その阿弥陀如来のおはたらきはいつでも、どこでも、どんな私になったとしても決して途切れることはありません。
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